しばし離れることについて
- 雪絵 後藤
- 2015年11月22日
- 読了時間: 3分
いきなりですし、世間的にはその理論をまだ立証出来ていないので
嫌悪感を持つ方もおられるかもしれないのですが
自身は完全に転生派なので
お世話になったり交流のある方達は遥か昔から何らかの縁があったりするものだと思っています。
先月から今月にかけて知人が何人か亡くなり
いやぁこれはいくらなんでも多過ぎるだろうと気が滅入ったりもしていました。
知人がいなくなるということで
良い思い出ばかりがたくさん蘇ってきますし、今までに亡くなった人までこんにちはと姿を現したりするのです。
不義理で冷たい人間なのかもしれないと思うのですが
お通夜や告別式には極力行きたくないのが心情です。
小さい頃から人が死ぬという光景をそれなりに見てきて感じるのが
葬儀をすることで
結局のところ、参列者ばかりに気を遣い、心の底から故人を偲んでいるようには見えないからです。
どうして葬儀屋を雇うという選択肢しかないのでしょうか。
もっとシンプルに骨を生前好きだった場所に埋めるだけでも
十分な供養になると考えるのですが、日本の法律はそう簡単にもいきません。
葬儀屋に何百万ものお金を払い(国と癒着しているのではないかと思うくらい。)
いかにも涙を誘います的な音楽を流し
お金で雇われたどんな人間かも分からない住職のお経を有難そうに静かに聞くシステム。
個人的にはこれほどまで不快に感じることはないです。
この当たり前の風潮に少しでも疑問を持ち、打破出来るものを作ることが出来ればいいなと
なるべく長生きをし、生きている間にしっかり考えようと思うのですが
しかし、悪いことばかりではないのです。
葬儀で会う人は疎遠になった方もいます。
そのようなところで会いたくないという方もいらっしゃるでしょうが
わたしは故人が引き合わせてくれた縁だと思っているのです。
言い方は悪いかもしれませんが
故人が死ななければ一生会わなかったかもしれない。
なんだか皮肉なものですけど。
自分が死ぬと
もしかしたら先に逝った方々に再会するかもしれないと頭では理解していても
容易く割り切ることは非常に難しいものですね。
どうしても悲しいよりも前に腹が立ったりというような複雑な感情だったり
もっと会っておけばよかったなと後悔の念を抱いたりします。
今のわたしにできることは
人生を悔いのないよう全うし
会いたい人に会い
毎年その季節の風が吹いたら故人を思い出す
それしかできないのですが
今日これを書いたことで
みなさんの心にほんの少しでも何か擦るものがあればいいなと思います。
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